紳士淑女の皆様、御機嫌よう。
兄男だ。

なんだかんだと時間は流れ、アレから1年以上の時間が経過していたとは驚きである。
1年という年月は、短いようで長い。

1年前にオギャーと産声をあげた赤子はいつの間にか言葉を習得し、
1年前に受験戦争を生き残った学生はどうにか進級し、
1年前に野球部へ入部した新入生はレギュラー抜擢され、
1年前に同人活動を始めた友人はいつの間にか独立開業し、
その勢いで3年間付き合った彼女に結婚を申し込むも、「お前とは結婚できない」とバッサリフラれ、
やけになって通い始めたパチンコ屋に結婚資金をすべて募金し音信不通となった。

そんな感じにあっという間に過ぎてしまうが、ふっと振り返ると「意外と色々あったなー」なんて感じる単位が1年という時間だと、個人的には思っている。

皆様はこの1年、如何お過ごしだっただろうか?

家族に尽くした者もいるだろう。
勉学に励んだ者もいるだろう。
部活に燃えた者もいるだろう。
趣味にうちこんだ者もいるだろう。
恋愛に啼いた者もいるだろう。
金策に苦しんだ者もいるだろう。

皆様も激動の1年を過ごされたことだと思う。

少なくとも、私の直近1年は激動の日々だった。


いや、今尚激動の日々は続いている。

現在進行形なのである。



何故か。

仕事のせいである。




聡明な皆様の事だ。
昨年、私が転職をしたことは既にご存知だろう。




そう、あれは1年前………。


人生に行き詰まりを感じていた私は、それまで続けた調理師の仕事から営業職へと華麗なる転職を遂げた。

輸入商社の営業マンへとジョブチェンジしたのである。


ここで、少しだけ、想像してみてほしい。


ちゃらんぽらんな学生時代を過ごしたあげく、私が飛び込んだ最初の会社は、

細胞を潰さないようにしてマグロを切るか、とか。

焼き目と焦げ目の境目の違いの探求、とか。

ふわふわオムレツをつくるために気温や湿度に合わせた水加減の調整、とか。

そういう世界だった。

そういう世界で社会人経験を積んだ人間が、突然の思いつきで営業の世界へと飛び込むとどうなるのか。


そう、悲劇が生まれる。


営業職の世界では、私が身に着けた包丁の技術は一切通用しなかった。
包丁だけではない。

あんなに苦労して体得した焼き場の技、火加減、塩加減、水加減の微妙な違いの把握。

それらのスキルは、全て一切通用することはなかった。


さらに言葉も通じない。

「ジョーダイイクラ?」「ゲダイニハンエイシテヨ」「ソレマルメチャッテ」「カケリツタケーヨ」「ゲンカショウキャクミテル?」「ピーデーシーイーサイクルチャントヤッテ」

新しい職場には意味不明な専門用語が、乗用語として飛び交ってる。

今まで習得した社会経験値はゼロに等しく。
言葉も通じない。

新しい職場に通い始めて1週間、私は悟った。

そうか、ここは異世界なんだ。

私は知らず知らずに、リアルに異世界転生をしてしまったのだ、と。


ちなみに最近では、異世界へと転生する時は、その世界へと導いてくれる女神的な存在が武器やスキルを無償で授けてくれるのがスタンダードとなっており、その時身に着けたスキルは、新世界を生き抜く上で、非常に役立つ、というのが鉄則となっているのは皆様も記憶に新しいだろう。

考えてみれば、私を営業職の世界へと導いた職業安定所の窓口に座っていた初老の女神も、転生前の私に2つのスキルを授けてくれた。

スキル「営業マナー(自己紹介から名刺交換まで)」
スキル「ワード・エクセルの基礎知識」

彼女はこのスキルさえあれば、まぁ最初の2カ月は生き残れるだろう、と肩を叩いてくれた。
私は素直に喜んだ。




嘘だった。




いや、もしかしたら私以外の人間なら2カ月どころか一生使えるスキルだったのかもしれない。
だが少なくとも私が新世界で生きていくには、このスキルは余りにも役不足であった。


……つづく。